プログラミング前の哲学

  • 2020年2月25日
  • 2020年3月13日
  • Brain
プログラミング前の哲学

プログラミング前の哲学

ズミ
2020-02-25 00:00:50
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2月24日 【木を見て森を見ず】

木を見て森を見ず、という諺が存在している。これは、物事の細かい部分だけしか見ておらず、全体を見ていないという意味の比喩だが、私の経験上、木を見ればその土地の植生が分かり、そこからその土地の気候が分かるので、おそらくこの諺は正しくない。むしろ森しか見ていない人にはより大きな部分が見えていないので、そういう意味では「森を見て木を見ず」と言い換える必要があろう。

しかし、これにはそれ相応の想像力と知識が必要となる。もしそこに生えている木を「ただの木」と判断したのなら、その人にかける言葉は「木を見て森を見ず」が妥当であろう。しかし、もしその木を「この木は広葉樹である」と判断したのなら、ある程度の植生、ひいては気候でさえ推定することができるので、その人が木を観察しているときに「木を見て森を見ず」と声をかけることは失礼であろう。

木だけを見て判断するには想像力と知識が不可欠である。逆に言えば、想像力と知識さえあれば木だけでも判断することができるので、木のそばに落ちている葉からでさえも判断することができると言える。落ちている葉を「ただの葉っぱ」と判断した場合、その葉はそこに偶然落ちているだけの葉であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、「この葉は広葉樹のものである」と判断することができたならば、地域をある程度絞ることができ、さらに「この葉はミズナラの葉である」と判断でき且つそれに関する知識を持っているのなら、「この地域は北東アジアである」と断定することができる。加えて想像力を働かせることで、「色から判断するに、この葉は秋から冬にかけて落ちたのもである」と推定できれば、より詳しい情報を得ることができる。

木、さらには葉からでさえも、その土地の植生、気候、場所、季節でさえも特定することができるので、木を見て森を見ていない人間は決して部分的に見ているわけではない。木をじっくりと観察している人間は、森を漠然と見ている人間には決して到達できない次元に到達することができる。

だが、もし木を見て森を見ない人間が、その木の細胞を調べだしたらどうであろうか。

仮に、調べた細胞がその木の葉の細胞であるなら、そこからその木の健康状態が分かるのだろう。もしそこで健康状態がわかったとしても他の木が健康とは限らない。しかし、何本も調べていくうちに共通点を発見することができれば、それらの木が共通の健康状態をもっていること、しかもそれがほかの地域では見られない特異的なものであることがわかるので、その人は「木を見て森を見ず」なのではなく「木を見てその地域の特異性を見ている」と言える。特異性を調べ同様の性質をもつ地域の特徴を知ることができれば、木を見るだけでかなりの情報を得ることができる。

得られる情報が木のどの部分を調べるかに依存しているので、森を見て木を見ない人は欲しい情報から逆算してその木を観察する必要がある。前述した通り、健康状態を知りたいのなら細胞を、季節が知りたいのなら色を、植生が知りたいのなら葉の葉脈を見る必要がある。

知識をもち、観察し、想像する、これができれば木を見るだけでよい、と遠くに生えている木を眺めながらあの木は何なのかと物思いにふける。


25日 【上と止】

「上」という漢字と「止」という漢字が似ているのは偶然なのだろうか。もし偶然ではなかったとしたら、どんなことが考えられるだろうか。ぶっちゃけ「上」から派生して「止」になったのかどうかは怪しいところであるが、ここでは「止」は「上」からできていると考えよう。

なぜ「上」に縦棒を挿入したのだろうか。

「上」の一番下の横棒に縦棒(長さは「上」の縦棒の1/2から2/3程度)を刺したものが「止」なのだが、確かにこの長さの棒を挿入するのならこの部分しかないかもしれない。仮に「上」の中線に左から横棒(長さは先ほど挿入した縦棒と同じ)を挿入した場合、右側にある横棒とズラす必要がある。もしズラさなければ別の漢字とならない。ズラさなかった場合、上から数えて一本目の横線の長さが左右でズレた「土」か「士」になってしまう。それならばやはり一番下の横棒に縦向きに挿入するのがよかろう。

「上」に一本の縦棒を上から挿入するか下から挿入するかによって、さらに「上」へと向かうか(すなわち、棒を挿入することでバネの役割を担い、さらに高く飛ぶ)、「止」まってしまう(すなわち、棒が歯車の回転を邪魔する役割を担う、もしくは棒が釘の役割を担うため地面に刺さって抜けない)かが決まるが、どちらから挿すかの決め手は何だったのだろうか。

もし「上」の一番下の横棒に下から縦棒を挿入したらどうであろうか。僕が思うに、「上」がさらに高くなり、もっと高みに進みそうな気配である。

しかし、ここで問題が発生する。漢字に締まりがなくなってしまうことである。「上」に下から縦棒を挿入した場合、ずいぶんと不安定な漢字となってしまう。真ん中の横線が重心となり、しかも立つ部分が一本足であるため、風が吹いたら倒れてしまうような印象である。その漢字が「より上」を指すものならあまり使いたくはないし、しかもそれが見ていて不安定な印象を受ける漢字なら人々は避けるだろう。それならやはり上から挿入した方がよい。だがそれだと、縦棒が釘の役割を担う「止」の方が妥当に感じてしまう。

漢字の安定性の話をしたが、「止」の安定感は半端ではないと感じる。一番下の横棒が土台となって支えているだけでなく、横から押しても頑丈である。「上」の場合、「上」という漢字を左から押して傾いた時は中線に右から刺さっている横棒が倒れるときに支えとなり、完全に倒れるのを防いでくれるが、反対に右側から押したときに大きく傾き、「上」という漢字が、土台となる横棒を基準として水平方向から反時計回りに150度ほど倒れた状態で静止してしまう。

一方で、「止」の場合はどうか。仮に左側に倒れたとしても中線の上端が地面につく前に挿入した縦棒の上端が支えてくれる。いや、もしかしたら倒れないかもしれない。この「止」の短い縦棒が釘だとして、その釘が地面に突き刺さっている場合はもはや倒れる、倒れないの話ではなく、抜ける、抜けないの話である。このとき、横から力を加えるのは無駄であろう。動かすためには「止」を「上」に引っこ抜く必要がある。引っこ抜けたとき、もはや釘が抜けてしまうのでその漢字は「止」ではなく「上」であるのが妥当だろう。

道路を原付で走っていると、必ず「止まれ」という文字が目に入るのだが、もし「止まれ」ではなく「上まれ」だった場合、どういう世界になるのだろうか。『もっとスピードを上げろ!』とか『自分を超えていけ!』とかの意味になるのだろうか。道路に叱咤激励されるのは悪くはないな、でも事故率は上昇するだろうな、と考えながら昇ったばかりの朝日を眺める。

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